ディープ・パープルDeepPurpleを解散した後、イアン・ギランは「イアン・ギラン・バンド」を、リッチー・ブラックモアは「レインボー」を、そしてロジャー・グローバーは主としてプロデュース活動に熱中する。またあまり知られていないが、ロジャー・グローバーは「エレメンツ」というコンセプト色の強いソロ・アルバムを発表するが、これがとてもいい作品だ。これはあらためて後日紹介する。そしてジョン・ロードとイアン・ペイスは共に活動することになる。このアルバムには、バンド結成時のいきさつが簡単に説明されている。英語は自信がないのだが、訳してみる。
『「ペイス・アシュトン・ロード」は、後に「PAL」という愛称で知られるようになるのだが、ロンドン・シンフォニー・オーケストラをしのぐほどのミュージカルで信頼を受けた男たちのグループから集まった5人で構成された。このバンドのアイデアは、1976年に最終的に分裂することになったディープ・パープルのジョン・ロードとイアン・ペイスのもので、彼らは二人だけで音楽活動をすることを決めたのだった。永遠に世界最高のビッグバンドで8年間活動した後として、これは決して誤った方向ではない』
『イアン・ペイスはドラムを叩き、ジョン・ロードはキーボードを弾く。そして二人は「アシュトン・ガードナー・アンド・ダイク」や「ファミリー」といったバンドの一員として活動し、自身のミュージカル・スターとしてのキャリアをだいなしにした、シンガーかつキーボーディストというマルチ・ミュージシャン、トニー・アシュトンを加えることに決めた』
『そしてさらに「ex−Stretchベース」を使うクールでファンキー、繊細なベーシストのポール・マルチネス、陽気なバーニー・マースデンをリードギターに迎えた。この二人は単純に加わったのではなく、たまたま仲間になったのだ。そう、このダイナミックなトリオは、マルチネスとマースデンに出会うまで、長く続いたオーディションでへとへとになって疲れきっていたところだった』
『事実は、バーニーはチャンスをほとんど逃すところだった、と、ロンドンのハマースミス・オデオンでリッチー・ブラックモアズ・レインボーを一緒に見に行ったときに彼が私に語った。彼は最初新しいバンドから全く注目されていなかったのだが、彼を紹介したのはレインボーのドラマーであるコージー・パウエルだったそうだ。「俺のいままでで最高の仕事だった」とマースデンは大きく満足そうな笑い顔で語った』
『そしてバンドは結成され、ディープ・パープルが偉大な作品を作り上げた「ミュニッヒズ・ミュージックランド・レコーディングスタジオ」へと集まった。そしてこのアルバムが作られたのだ』
『ところで、ここにはディープ・パープルと同じ攻撃性、刺激、誠実さ、そして音楽的能力を極限まで高めた完成度がある。そしてそのうえ、リズムと音楽スタイルは完全に新しいものだ。私たちの多くが失いつつある、ファンキーなブラス・セクションと、スーパー・クールな女性コーラス、そしてロック・アンド・ブルースのフィーリング、それらがここにあるなんて信じられるか?』
これはメロディー・メイカー誌のBrinanHarriganによる評なのだが、ここにあるように伝統的なロックの技法を使いながら、現代的な作品に仕上がっている。内容はロック・オペラのようなコンセプトを持っている。でもディープ・パープルとは全然アプローチが違うなあ。英語の歌詞がついているのだが、いかんせん、英語力のなさで詳しい内容はわからない。こういうアルバムこそ日本盤で訳詞を見ながらゆっくりと聴きたいものだ。
このアルバムは1977年に発表された。WarnesBros.Recordsから発売された米盤のアナログレコードだ。
1999.8.21