Presence / LED ZEPPELIN


職場で机の上にレッド・ツエッペリンのCDを出していたら、「私も大好きなんですよ」と声をかけてくれたのが同僚のNさんでした。私が引越しをし、今は隣の棟に住むお隣さんどうしになっています。日本画が専門の芸術家で、Machintoshとパワー・ブックの使い手です。ホームページも作られていて、ご趣味の登山のことが中心の力作ページです。そしてNさんは私にこのアルバムを貸してくれました。

このアルバムはKAXさんも大好きのアルバムで、「紹介する」と言うと楽しみにしているようでした。ツェッペリンでロックに目覚めたと言ってもいいだろうKAXさんですから、このアルバム紹介はKAXさんにこそふさわしいもの。機会があれば彼にも一言書いて欲しいものだと思います。

さて、このアルバム。私も学生時代から知ってはいましたが、当時はツェッペリンがいまひとつ好きになれなかったこと、ハード・ロックに似つかわしくないジャケット(ジャケットのデザインってアルバムを手に取るか取らないか、大きく影響しますよね)、に恐れをなし(^_^;)、聴いたことがない、という訳ではありませんが、真面目には聴きませんでした。ですから今回が初めて聴くようなものと言えます。

Nさんは「1曲目の『アキレス最後の戦い』をどう感じるかで、このアルバムを好きか嫌いかが別れるでしょう」と言われました。そう言われちゃ1曲目から真剣に聴かざるを得ません。昨日レコード・プレイヤーからMDに録音してあります。よし。聴くぞ。



うーん。なんといいましょうか、うーん。すごいですね(^_^;)。で、これ、聴いたことがありますね。やっぱり。で、学生時代の私が、どうして好きになれなかったのか、ということを分析的に考えてみると、音が軽い、っちうか、すごい生の音がしています。ギターの音がやっぱり好きになれなかったですね。今聴くと、案外味があるなと思いますが、学生時代の私はこういうギターの音が好きではありませんでした。耳障りなノイズを含んだ、「ファズ・トーン」は、ギターを始めたばかりのギター小僧が好んで使うような音、と当時は思いました。ドラムもベースも、音のバランスがなんだか悪いように思えました。空間的な広がりにも欠けます。

そしてドラムとベースが中心となるシンコペーションが曲の背骨を作っていますが、どうもこのシンコペーションがもたついているように思えます。音の処理が悪いのか、リズム・セクションの歯切れが悪く、もたついて聞えます。

なんだか悪口ばかり書いているなあ(^_^;)。まあ、いいですよね。このコーナーで紹介するアルバムは、だいたいにおいて貶したことないですが、これだけビッグなアルバムですから多少の悪口はOKですよね。またこれはあくまでも学生だった当時の私の感想、ということで読んでください。

そしてこれは私の思い込みにすぎないのですが、ギターが右と左にオーバー・ダビングされていることが嫌でした。当時の私はすでに遊び半分ではありましたがバンドをやっていたので、ライブで演奏するということがとても大きな意味を持っていました。ですからギタリストが一人しかいないのに左右でオーバー・ダビングされた音楽っていうのは、ライブで演奏不可能だということで拒否感がありましたね。

しかし今の私にはコダワリなく楽しむことができ、すごい音楽性とエネルギーを十分に味わうことができました。10分以上ある大作であり、しかも最初から最後まで怒涛のように突き抜けるスピード。もし私が自分の趣味に固執することなく自然に聴くことができたなら、きっと学生時代から身体に染み込んでゆき、忘れられない曲となっただろうと思います。KAXさんもNさんも、この曲の虜になったことがよくわかります。

あたかもプログレッシブ・ロックのように豪華な構成がされながら、サウンド的には実にシンプルで直線的。自然なエネルギーがバンド全体から眩しいくらいに放出されている、という印象を受けました。

ロック評論家の渋谷陽一さんは「ツェッペリン好き」を自認されていて、このアルバムでも解説を書かれています。やや長くなりますが、ツェッペリンの音楽に対する分析的な部分を紹介します。

「『ステアウェイ・トゥ・ヘヴン』は、現在の僕達の生はすべて息苦しい曖昧さの中で窒息しそうになっている、何も確かなものはなく、僕達は途方にくれているだけだ、しかし確かなものがひとつだけある、それはこの音(チューン)だ。もし君が本当にそれを求めるならば、それは聞こえてくる。という事を歌っている。つまり一種の決意表明のような歌である。この歌以降、彼らの音はそうした確かなチューンをひたすら求めるようなものになった。音に曖昧さや余裕みたいなものがなくなり、余分なものを一切排除したまさに音の核だけを抽出した、ハードで確かなものばかりになったのだ。詩のほうも同じで『ステアウェイ・トゥ・ヘブン』以降、ああした説明的なものはなくなり、結論だけを叩きつけるようなものが多い。アルバム・タイトルにしてもそうだ。『聖なる館』にはまだいくぶん神秘主義的、文学的な余裕が感じられたが「フィジカル・グラフィティ」ではそれが全くなくなり、そして今度の『プレゼンス』に到ってはまさに、これ以上確かなものはないという感じである。」

解説の締めくくりはこうです。「楽器のフレーズとかヴォーカルの質とかいったものを超えた、音がそこにあるという重く確かな存在感だけを感じさせる、全く申し分ないツェッペリンの巨大な音を前に、僕はひたすら自分が開かれていくのを感じる」。ここにはツェッペリンに対する万感の思いが込められています。

このアルバムは1976年に発表された、日本盤のアナログ・レコードです。

1998.10.5